シンポジウム 20世紀社会学を総括するU−20世紀中期の社会学

亡命者の社会学――マージナリティと社会学的想像力

 澤井敦  大妻女子大学(人間関係学部)

「現代人は永遠のよそ者( stranger )としてではなくても、少なくとも部外者( outsider )として自己を意識するが、このような自己意識は、大部分、社会的な相対性や歴史の変形力についての深い実感に根ざしている。社会学的想像力は、この自己意識のもっとも実り多い形式である」( C.W. ミルズ『社会学的想像力』より)

「亡命という状態は、現実の状況であると同時に、わたしの論点にひきつければ、比喩的なものであるということだ」「亡命者とは、知識人にとってのモデルである」「知識人とは亡命者にして境界的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」( E.W. サイード『知識人とはなにか』より)

はじめに 

1933年春のヒトラーの独裁体制確立以降、1945年の第二次大戦終戦に至るまでの期間、ドイツから、またオーストリアなどドイツの支配下におかれた地域から、多数の人々が、ユダヤ人であるという理由で、また、政治的理由で、亡命を余儀なくされた。その中には多くの社会科学者、さらには社会学者たちが含まれていた。

彼ら亡命の社会学者たちが主たる亡命地であるアメリカ、あるいはイギリスでなした仕事を、彼らがそこでおかれた社会的状況を背景として読み解くこと、いわば、「〈亡命者がなした社会学〉についての社会学的考察」が、本報告の主題である。

亡命者がおかれた状況を「マージナリティ(周辺性、境界性)」という言葉で特徴づけること自体は、特に目新しいことではない。本報告の目的は、この「マージナリティ」の具体的様相と本質的意味について、より微細に検討することにある。そして、そうしたマージナリティが、個々の社会の違いをこえて存在する「近代」の問題性を総体としてとらえる、社会学的想像力の源泉となったのではないかという論点、さらに、亡命の社会学者たちのありかたは、社会学という営みを生きる者にとっての「モデル」(サイードの表現を借りれば)となるものではないかという論点を提示することにある。

1.亡命の社会学者たち

ところで、「亡命の社会学者たち」とは誰か。たとえばレプシウスはドイツとオーストリアから亡命した社会学者として191名の名を、ヴィッテブルはドイツから亡命した社会学者として141名の名をリストアップしている。当時まだ社会学は制度化の途上にあり、「社会学」と他の学問を分ける境界もはっきりとしたものではなかった。したがって、どの範囲までを「社会学者」と呼ぶか、という問題がある。さらに、たとえば、アドルノ、ホルクハイマー、マンハイム、エリアス、ラザーズフェルド、シュッツといった大物について語ることで、あるいは「社会研究所」や「ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ」といった代表的な組織について語ることで、亡命者の社会学を語り尽くしたと言えるのか、という問題がある。アメリカやイギリスに限らず世界各国に散らばった名もない社会学者たちの生をたんねんに追いかけていくことが、亡命者の社会学の全体像を描くためには不可欠であろう。

ただ、ここではやはり目的を限定し、代表的な社会学者たちに随時言及しつつ、亡命の社会学者たちのありかたを、いわば理念型的に描き出すことに注意を集中することにしたい( 亡命の社会学者のリストについては、配布資料参照 )。

なお、亡命の社会学者全体に関わるデータをいくつかあげておく。ドイツに限定して言うと、1932〜33年の冬学期に大学に所属していた教授・助教授・私講師・客員教授のうち 4 が、ナチスによって亡命を余儀なくされた。助手や非常勤講師、また大学外の研究者も加えて考えると、年齢構成的には、彼らの7割弱が40歳以下の者である。また、亡命時点で見ると、ユダヤ系の亡命者全体の数がピークに達するのが1938〜39年であるのに対して、社会学者たちの亡命は1933〜34年に集中している点が特徴的である( 配布資料参照 )。

2.知識人の亡命における社会学者の位置

 まずは、亡命の社会学者たちがおかれた社会的状況を、知識人の亡命者一般のおかれた状況のなかに位置づけていくことから始めたい。ナチス支配下からの亡命者の総数は、約50万人といわれる。そのうち、ドイツからのユダヤ人の亡命が約28万人、オーストリアからの亡命など他の地域からの数も含めると45万人以上のユダヤ人が亡命を強いられたと考えられる。ユダヤ人であること以外の、政治的な理由による亡命は、その10分の1に満たない数であった。そして、彼ら亡命者の中には、約2000人ほどの大学・学術機関の関係者、さらに、出版関係者やジャーナリスト、芸術家などを含めると、1万人以上の知識人が含まれていた。

 大学など学術関係の亡命者にたいしては、1933年の早い段階から、彼らの就職先のあっせんと経済的援助のために、同じく学術関係者により組織された「外国人追放学者救援緊急委員会」(アメリカ)や「大学人援護協会」(イギリス)などが動き始めていた。また、「プリンストン大学高等学術研究所」や「亡命者大学(ニュー・スクール)」などの機関が、亡命学者を受け入れていた。ただし、亡命学者一般の状況は、決して満ち足りたものではなかった。まず、先に述べた委員会や協会は、個々の学者を個人的に援助するというよりは「学問」を救済するという主旨のものであった。したがって、援助の対象は、第一級の学者に限定されていた。また援助が受けられたとしても、それは、本来受け入れ先の大学が支払うべき給料を、委員会・協会と他の財団(とりわけロックフェラー財団)が、期限付きで、折半して支払うというかたちのものであり、大学での半永久的な常勤職を保証するものではなかった。さらに、その給料の額、また、ニュー・スクールなどの機関の給料も、当地の大学常勤職の半分以下の額でしかなかった。

 アメリカの場合、以上のような経済的問題に加えて、学問的風土という問題があった。学者たちのなかでも、技術の移転可能性の高い自然科学系の物理学者、化学者などは比較的職をえやすかった。人文・社会科学においても、自然科学的あるいは数学的色彩の濃い学問、たとえば、経済学であれば数理経済学や新古典派経済学、哲学であればウィーン学団(論理実証主義)の専門家は職をうることが比較的容易であった。また、精神分析のように、ニーズはあるが専門家が育っていなかった分野の学者も、職をえやすかった。反対に、経済学であれば歴史学派、心理学であればゲシュタルト心理学、哲学であれば現象学派や実存主義の専門家はアメリカの大学に職をうることが比較的難しかった。では、社会学者はどうであったか。どちらかというと理論的指向の強いヨーロッパの社会学者たちにとって、経験的研究指向の強い土壌での就職は、他の学問と比べても、少なくとも当初は困難であったようだ。自身も亡命者であるリーマーの報告によれば、理論家である社会学者は、かりに職についたとしても、社会学史を担当する教育者に専念するか、あるいは翻訳に携わるなどして、結局、実質的な研究の継続を放棄するケースが少なくなかった。職につけなければ、学問から退いて行政職や実業の世界へと向かう者もいた。そうしたなかで、例外的な、しかも対照的な位置を占めていたのが、フランクフルト学派の「社会研究所」とラザーズフェルドである。社会研究所の場合、財政的には少なくとも1930年代までは、豊富な自己資金をもっていた。コロンビア大に居を借りるかたちをとっていたものの、実質的には独立していたと言ってよい。しかし、この独立は、同時に、周囲の環境からの孤立を意味するものでもあった。逆に、ラザーズフェルドの場合、アメリカ社会学、またアメリカ社会のなかでの社会調査や市場調査・世論調査への関心の高まりと、彼自身の調査技法への関心が(彼自身も述べているように)、幸運にも、「構造的に適合」した。社会調査の分野で、ラザーズフェルドは指導的地位にまで登りつめた。リーマーによれば、途中からはもう誰も彼のことを亡命者などとは思わなくなった、という。

 では、イギリスの場合はどうか。ケーニッヒの報告によれば、ヨーロッパには、アメリカと比べて社会学者のための職は少なかった。経済的貧困や失業に陥る、あるいは、身元を書類で証明できず嫌疑をかけられるといったケースも少なくなかったようだ。たとえば、エリアスなどは、「ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス」の特別研究員となるものの、一時的に外国人収容所に強制入所させられたりしている。エリアスが、常勤職(レスター大学)をうるのは、1954年になってからである。また、亡命の社会学者のなかでは非常に恵まれていたとされるマンハイムについても、実情は必ずしもそうではなかったことがわかっている。マンハイムは、1933年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの講師となるが、これは、先に述べた「大学人援護協会」とロックフェラー財団が給与を、期限付きで、折半して支払うというかたち、つまり臨時救済措置的な雇用であった。しかも、1938年に学長が交代した後には、経験的社会学指向のロンドン大には合わないという理由で、マンハイムをアメリカの大学へと配置換えしたいという意向を、大学側は財団にたいして示している。結局、マンハイムが常勤職をえたのは、死の2年前の1945年、しかも社会学ではなく教育学部の教員としてであった。

3.亡命者のマージナリティ〜周辺性から境界性へ

亡命地における亡命者たちの状況は、しばしば「マージナル・マン=周辺人」のそれとして特徴づけられる。そしてたとえば、彼らの周辺性が、亡命地の文化を「脱地方化」することに貢献したと語られたりする(コーザー)。しかし、多くの亡命の社会学者たちは、すでに亡命以前に、その故国において、こうした周辺性を身におびていたのではなかったか。亡命の社会学者の多くは、ユダヤ人であった。もちろん「ユダヤ人」とは誰か、という問いにたいする答えは必ずしも自明なものではない。実際、ナチスがニュルンベルク法の 2 ヵ月後に定めたユダヤ人概念を規定する条例においても、その定義は、 祖父母4人 うち3人 以上がユダヤ教徒の場合「ユダヤ人」、 1 人がユダヤ教徒の場合「ユダヤ系」というものであった。この場合、たとえば本人が、改宗してキリスト教徒になっていたとしても、「ユダヤ人」と見なされる可能性がある。こう見ると、ユダヤ人とは、「ユダヤ人として定義される者」(ケスラー)、「他の人々が、ユダヤ人と考えている人間」(サルトル)と言ったほうがよい。そして、ユダヤ人と呼ばれる者になにか共通するものがあるとしたら、それは人種的特徴や宗教的特徴にもまして、周囲からユダヤ人と見なされ、周辺的な位置におかれる、という、まさにその「社会的経験」である。

たとえば、エリアスは、回顧録のなかに、子どもの時に徐々に、両親もきちんと説明はしてくれなかったが、自分がドイツ社会の主流から排除されたマイノリティに属している者だということを意識していったと書き記している。さらに、エリアスは、このことが「未来の社会学者にとっては悪くない訓練」だったと述べている。エリアスによれば、それは「社会の主流から距離をとる好機、イデオロギー的歪曲や社会的な権力関係の隠蔽にたいする鋭い感覚をうる好機」をあたえてくれた。言うまでもなく、こうした「距離」は、軽やかな思考の運動性などによるものではない。ユダヤ人であることを誇りをもって自認していたオッペンハイマーのような例もあるが、当時、多くのユダヤ系(と見なされた)社会学者たちは、むしろ「同化ユダヤ人」としての道を歩んでいた。ベンディックスが言うように「形式的な法的平等をこえて、市民として価値ある存在と認めてもらう」ため、たとえば、彼らは教育上の高い地位を求めた。しかし、一方でこのように「どこかに帰属したいという意志」を持ちながら、他方でそれが十全に「受け容れられないこと」(ケスラー)、このことの帰結が、先に述べた、社会からの「距離」、苦渋に満ちた「距離」である。そして、この距離が、彼らに、社会の姿を自明視することなく、その深層にあるものを感知する「鋭い感覚」をあたえたこともまた事実であろう。

さて、 1933年4月、ドイツで の「職業公務員再建法」の施行を発端として、多くのユダヤ系社会学者たちは職を追われ、亡命の道を選ぶことになる(もちろん、たとえばラザーズフェルドやブラウのように、社会主義運動への関与が亡命の主要因となったケースもあるが)。そして先に見たように、亡命地においても、彼らは容易に受容されたわけではなかった。彼らはいわば、二つの(あるいは複数の)社会・文化の「間」、「境界」にたたずまざるをえない、そうした存在となった。亡命者は、この意味での「マージナル・マン=境界人」と呼ばれるべき存在であろう。彼らのマージナリティは、「周辺性」から「境界性」へと変容した。ちなみに、「周辺性」に対応するのがジンメルの言う「異郷人」だとすれば、「境界性」に対応するのはシュッツの言う「よそ者」である、と言うこともできる。

この意味でのマージナリティは、亡命の社会学者たちをどこへと導いていったのか。それは、絶望と不安、さらには自殺という結末であることもあった。しかし、幾人かの社会学者たちにとって、こうしたマージナリティは、社会学者としての自らの活動や思考を展開させていくための糧となった。たとえば、先に例外的成功をおさめたと述べたラザーズフェルドであるが、彼も、マージナル・マンとしての自意識を強くもっていたことが知られている。ただ、本人の証言によれば、ラザーズフェルドの場合、このことは、異なる二つの領域を結びつけ、制度的革新をおこなうことへと彼を促すこととなった。それは、たとえば、「社会科学と数学、学問への関心と応用への関心、ヨーロッパ的観方とアメリカ的観方(調査法)」を結びつけるというかたちで、つまり、数学的・統計学的手法を社会調査に導入したり、財界との接触を保ちながら市場調査や世論調査を積極的に行いそれを学問的調査の基盤としたり、あるいは、フロムら精神分析学者と会合をもったりアドルノをラジオ調査プロジェクトに引き込んだり(もっともアドルノ本人にとってこの経験は決して愉快なものではなかったようだが)といったかたちであらわれた。また、アドルノが、後の『権威主義的パーソナリティ』( 1950 )における社会心理学者たちとの共同作業のなかで、批判理論と経験的な心理学的調査の手法を結びつけたことも、こうした文脈において理解することができる。

このような、異なる領域間を横断するいわば「越境性」は、さらに拡大すれば、複数の社会・文化から距離をとり、それらを横断しつつ視野を拡大し、新しい総合的な視野を開いていくことへとつうじていくだろう。たとえばアドルノは、おそらく死の直前に執筆されたと思われる回顧録において、彼がアメリカで学んだこととして、ものごとを自明視しなくなったこと、「文化に対する一種の素朴な信仰から解放され、文化を外側から眺める能力を身につけた」ことをあげている。そしてそれは、自身の文化的前提を否定・放棄するということではなく、「人がこれらの前提を無意識のまま保持しつづけるか、それとも技術的・産業的に最も発達した国の基準との対比そのものにおいてこうした前提に気づくに至るか」という相違であると述べている。そして、マンハイムもまた、「バイリンガル・マインド」の重要性について語り、死の 2 年前の「亡命者の任務」と題された小論では、亡命者を、排除されるのでもなく同化するのでもなく、いわば媒介的な位置から「複数の文化の間にあって、いきいきとした解釈者として努め、それまで切り離されていた複数の世界の間にいきいきとしたコミュニケーションをうみだす」役割をはたすものととらえている。それはまさしく、ローダーが「亡命者戦略」と名づけた、思考の姿勢であった。

4.近代の批判と社会学的想像力

亡命の社会学者たちがなした仕事は、哲学的研究から実証的研究まで、多岐にわたっている。ただそれらの多くが、ナチズム、ファシズムの台頭という歴史的事実を、程度の差はあれ、念頭においたものであったことに疑いはないだろう。マンハイムの『変革期における人間と社会』(1935、1940)や『現代の診断』(1943)、レーデラーの『大衆の国家』(1940)、フロムの『自由からの逃走』(1941)、へバーレの『民主主義からナチズムへ』(1945)、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』(1947)、ホルクハイマーの『理性の腐蝕』(1947)、クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで』(1947)など、その例は豊富である。自らの亡命という私的運命から出発して、まさしくその運命を生みだす要因となったナチズムを、社会学的にとらえかえすという作業に多くの社会学者たちは向かった。しかし、そうした仕事の多くは、仮にそれがナチズムそのものを分析したものであったとしても、特殊ドイツ的な、ドイツ社会に固有の病理を描き出すことに尽きるものではなかった。それらの研究の多くは、一方でドイツのナチズムを亡命地から距離をおいて見つめつつも、他方で、亡命地であるアメリカ社会やイギリス社会の様相をも距離をおいてとらえ、かくして、ドイツ社会に限定されない、近代社会全般の問題性へと視界を開いていく性質のものであった。

たとえばホルクハイマーやアドルノは、外なる自然を支配するために人間の内なる自然をも支配することを目的とする啓蒙、ないしは道具的理性が、それ自体、非合理的な神話へと、あるいは野蛮へと逆転していく過程を近代の根底に見出した。そして、彼らは、その同じ過程の異なる様相をナチスの反ユダヤ主義のなかに(抑圧された内なる自然の叛乱を利用する全体主義的支配)、また、アメリカの大衆文化のなかに(文化産業が提供するモデルへと主体的に自己を適合させていく個人)見出した。「現代のわれわれの産業文明の根底にある合理性概念」についての批判的省察が、まさしく彼らの目的であった。

またマンハイムも、イギリスでの亡命生活をへて、増補されて出版された英語版『変革期における人間と社会』(1940)において、問題を「ドイツ的な観点およびイギリス的な観点の双方から考えることを習得することによって、最大の利益をえた」と述べている。マンハイムは、「近代社会の構造そのもの」の変化のなかに、「大衆化」現象、すなわち、基本的民主化と機能的合理化が進行するなかで、集団的紐帯や全体の相互連関を見通す実質的合理性を欠き、精神的な抵抗力を失った「甲羅のない蟹」のような人々が増殖する過程を見出した。こうした土壌の上に、大衆動員のための社会的技術を駆使して独裁体制を築いたのがナチスであった。ただし、同じ土壌は、ドイツ以外の近代社会においてもすでに広がっている。マンハイムの言う「戦闘的民主主義」は、こうした動きに抗して、自由放任的な自由主義でもなく全体主義的な独裁でもない「第三の道」、すなわち「最大限の自由と自己決定を許容する計画の形式」、「自由のための計画」を推進する道へと進路をとるものであった。

さらに、直接ナチズムを扱ったものではないが、エリアスの『文明化の過程』(1939)もまたこうした文脈において理解することができる。エリアスは晩年の『ドイツ人論』(1989)において、彼を文明化過程の研究へと向かわせたのは「個人的な問題」、すなわち「文明化による規制の急速な崩壊」をドイツで目の当たりにしたことであったと述べている。エリアスによれば、この崩壊を理解するためには、近視眼的に現代のみに照準を合わせるのではなく、近代社会を成立させる文明化過程、すなわち、権力の集中や相互依存関係の拡大といった社会過程と連動しつつ人間の自己統御のあり方、自我のあり方、羞恥心や嫌悪感など感性のあり方が変化していく過程の全貌をとらえる必要がある。フランクフルト大学時代の『宮廷社会』が主としてフランスの宮廷を扱ったものであったのにたいして、亡命先のイギリスで執筆された『文明化の過程』では、近代社会の存立過程へと視野が拡大されていく。

このように見ると、亡命の社会学者たちがおかれた境界人という状態、「永遠のよそ物」(ミルズ)という状態は、彼らの故国での生活、また亡命地での生活における経験を出発点として、それが孕む問題性を、近代社会全般の問題性という文脈でとらえかえすという作業を可能にする、ミルズのいう「社会学的想像力」の源泉となりえたのではないか、と思える(ちなみにミルズは、亡命の社会学者ガースとの共同作業、また、フランクフルト学派やマンハイムを初期の段階から非常に高く評価していたことで知られる)。彼らが開拓した道は、大衆社会論はもとより、管理社会論や消費社会論など20世紀半ば以降の現代社会論、さらには、近年のモダニティ・ポストモダニティ論へと接続していくものである。

さらにまた、こうした境界性と社会学的想像力の結びつきは、社会学という営みにとってのひとつのモデルを提示してはいないだろうか。シュッツがその「よそ者」論をニュー・スクールで講義した際(1942/43年冬学期)、シュッツが、亡命者の境遇を田舎で暮らそうとする都市居住者、大学に入学する農家の息子などと比較したため、例外的な亡命者の実存的境遇を社会学的に平板化しているとする激しい批判を浴びた。しかしシュッツは、亡命者という境遇を、いわば「比喩的」(サイード)なものとして、多様なケースにあてはまるある種の存在様式を理念型的にしめす「モデル」として理解できることを察知していたのではないか。シュッツは、よそ者が、今まで自明視していたことが無効になるという「苦い経験」をつうじて、ある種の「客観性」を身につけると述べている。よそ者は「しばしば苦痛の込もった慧眼さをもって、『相対的に自然的な世界観』の全基盤を脅かしかねない危機が迫っていることを嗅ぎ分ける」。このような、社会学的想像力へとつらなる客観性をうみだす源泉としての境界性は、なにも亡命者に固有のものではないだろう。むしろそれは、知識人が、そしてまた社会学者が、本来身におびるべき境界性とさえ言えるかもしれない。ただ、確認しておかねばならないのは、亡命の社会学者たちの境界性は、決して自ら選び取られたものではなかった、という事実である。それは、強いられた、まさしく「苦い経験」であった。

おわりに

最後に、日本について考えておきたい。日本に亡命した社会学者、あるいは関連領域の学者としては、オッペンハイマーやレーヴィットの名があげられる。両者とも、日本の風土や日本の学術関係者の理解と共感にたいして、非常に好意的な感想を述べている。実際、日本政府の「ユダヤ人対策要綱」(1938)では、「全面的にユダヤ人を排斥するなどというのは八紘一宇の国是に沿わない」という理由で、ユダヤ人を一般外国人と同様に扱うことが定められていた(もちろんこの「国是」そのものには問題があるにしても)。しかし、レーヴィット(1936年来日)が述べているように、在日ドイツ人、とりわけ、公使館筋やナチ教員同盟などの関係者による排斥の動きが、当初からあったようだ。そして、こうした動きは、ドイツとの同盟関係が強化されるにつれて(ジャーナリズムでの反ユダヤ的言論の流布ともあいまって)、ますます強まっていく。実際、オッペンハイマーは、慶応義塾大からの講義委嘱を受けてというかたちで、1939年1月に日本に到着するが、おそらくは上記のような圧力もあり、講義、公開の講演、雑誌への寄稿などの一切を禁じられた(それも、彼がユダヤ人だからではなく、社会主義的な考え方を持っているという理由で)。さらに同年中には、オッペンハイマーは滞在許可を剥奪され、上海へと亡命することを余儀なくされている。また、レーヴィットも1941年、真珠湾攻撃の直前にアメリカへと亡命している。このようなことからすると、おそらく、当時の日本側関係者の多くには、彼らを「ドイツ人」ではなく「ドイツからの亡命者」として見る視点が希薄だったのではないだろうか。

また逆に、当時の日本人の知識人、さらには社会学者たちにとって、「亡命」という選択肢は、どの程度開かれたものであったのだろうか。問題提起にとどまらざるをえないが、第二次大戦前後の日本の社会学のあり方を、亡命者の存在・不在、また「内的亡命」という視点からとらえかえしてみることにも、意味があるように思う。                            ( 引用・参考文献については、配布資料参照